■ドゥ・ハルヴ・マーン醸造所のある町
ブリュッセルから電車で約1時間。
とても有名で日本からの観光客も多い、水の都ブルージュの町にあります。
12〜13世紀頃、ブルージュの港はヨーロッパ貿易の中心となってとても繁栄しましたが、15世紀にブルージュと北海を結ぶ水路が泥のために浅くなり船が行き来できなくなると、港としてだけでなく都市としての機能まで失ってしまいました。
ただそのおかげで中世のままの景観が今日まで残されています。
■ドゥ・ハルヴ・マーン醸造所の歴史
ハルヴ・マーンとはフラマン語で半月(ハーフ・ムーン)という意味。
醸造所の歴史はとても古く、1564年には町の台帳に名前が残されています。
1856年にアンリ1世として知られる、マース一族のレオン・マースが醸造所の所有者となりました。
醸造したビールは樽のみによって配下されていました。
1867年にアンリ1世が亡くなると、息子のアンリ2世たちが後を継ぎました。
彼らは産業革命のさなか、最新の技術を学ぶためにイギリスに渡り、帰国後はスタウトやペールエールなどイギリススタイルのビールの醸造をはじめました。
1905年にアンリ2世たちが若くして亡くなると、その後は彼らの妻たちが醸造所の運営を続け、第一次世界大戦の困難な時代を乗り越えることができました。
第一次世界大戦後の1919年、醸造所の運営はアンリ3世が受け継ぎました。
彼はドイツに渡り、下面発酵のラガーの技術を学びました。
ブルージュでもラガーを生産することを決意し、1928年には醸造を開始。
続いてボックの生産も開始し、大きな成功をおさめました。
また彼は馬を使って顧客のところに配達するシステムを構築し、顧客の支持を得ました。
1950年代、アンリ4世の時代も醸造所と配送システムは成長を続けましたが、1970年代には人々の生活スタイルが一変し、顧客は車に乗ってスーパーなどにビールを買いに行くようになりました。
1981年、アンリ4世の娘ヴェロニクは新たなビールを世に送り出しました。
ブルージュに聖アルノーの銅像が建てられたのを記念して造られたこのビールは、他のビールよりも強く、「ストラッフェ・ヘンドリック(強いアンリ)」と呼ばれる由縁となりました。
1988年にはリヴァ・グループのデ・スプレンテル一族に買収され、醸造所の名前もハルヴ・マーンからストラッフェ・ヘンドリック醸造所になりました。
メインの銘柄であるストラッフェ・ヘンドリックはその後2002年までブルージュで醸造されました。
醸造所は町の人々や観光客に解放され、見学コースやカフェはとてもにぎわうようになりました。
特に醸造所の屋上からはブルージュの町が一望でき、最高の展望です。
2002年、リヴァ・グループのデ・スプレンテル一族が醸造部門を売却。
この時点でストラッフェ・ヘンドリック醸造所の操業も停止されることになりましたが、ストラッフェ・ヘンドリックブランドとそのレシピの権利はリーフマンス・ブルワリーズグループが引き継いで所有し、デンテルゲムで造られることになりました。
3年間の醸造停止期間を経て2005年、ヴェロニク夫人の息子、ザヴィエル・ヴァネスタ(6代目にあたります)が醸造所を買い戻し、名前もかつてのドゥ・ハルヴ・マーン醸造所として醸造を再開。
彼の父方の一族であるヴァネスタ一族も、1983年までブルージュでグーデンブーム醸造所を操業していた醸造一家でした。
彼は独自のレシピを開発し、「ブルッグス・ゾット」として販売を開始。
今日ではこの「ブルッグス・ゾット」がブルージュで醸造されている唯一のビールとして、町中の人々に愛されています。
醸造所を見事に復活させ、軌道に乗せたザヴィエル・ヴァネスタ氏は、JCI
Vlaanderen.(Junior Chamber International Flanders Federeation
of Young Leaders
and Entrepreneurs)より、Young Flemish Entrepreneur 2008に選ばれました。
■ブルッグス・ゾットの物語
かつてブルージュの町にオーストリーのマキシミリアン皇帝を迎え入れる際に、人々は浮かれ騒ぐ人や馬鹿を使った派手なパレードを行いました。
彼らは最終的に皇帝に新しい精神病院を建てるための資金援助を依頼したのです。
すると皇帝は言いました。
「今日私は馬鹿にしか会っていない。ブルージュの町こそ大きな精神病院だ!」。
それ以来ブルージュの人々は「ブルッグス・ゾット(ブルージュの馬鹿)」と呼ばれるようになりました。
そしてこの「ブルッグス・ゾット」という名前を、再開したドゥ・ハルヴ・マーン醸造所のビールに命名したのはなんとブルージュ市長だそうです。