2021.03.25
木屋の歴史④ 現代~酒類の取扱開始
昭和13年当時の酒類小売業免許証
三十郎の代(1911-1993)
三十郎という名前は、先祖に三十郎というとても優秀な人がいたことから名付けられた、と聞いていましたが、今回の調査で実際に大叔父(重蔵の弟)に同名の三十郎がいたことがわかりました。
三十郎の代では、酒類、塩の取り扱いを開始。
酒類小売業免許及び、卸売業免許も取得。
1970年9月10日に、株式会社木屋として法人化。
この頃の木屋は、家庭用、業務用、法人、官公庁を主な得意先としていました。
店舗では味噌の量り売り、立呑も行われていました。
昭和16年当時の木屋平面図(当時の従業員の方が描いてくださったもの)
昭和16年当時の木屋正面と店内に入ったところ(当時の従業員の方が描いてくださったもの)
1970年代頃の木屋(左から2番目は三十郎、一番右は一記)
鑛一の代(1938-)
酒類卸会社勤務後、木屋入社。
その後まもなく、株式会社ラッキーストアー設立。
当時はまだめずらしかった、酒類を取り扱うスーパーマーケット「スーパー ラッキーストアー」を愛知県西春日井郡清洲町(現在の清須市)に開店。
木屋の支店として酒類の販売を行っていました。
この頃の木屋は、業務用、法人、官公庁を主な得意先としていました。
日本名門酒会加盟。
1980年代には店舗の改装を行いました。
平成29年当時閉店前の旧木屋
一記の代(1967-)
清酒醸造メーカー勤務後、木屋入社。
日本酒、ワイン専門店を経て、ベルギービールの取り扱いを開始。
1995年、インターネットでのビール販売を開始。
2004年、ベルギービールJapanオープン。
2006年、ベルギーからの直接輸入開始。
2017年10月、現在の場所(中区丸の内3-8-2)に本社移転。
BEER BOUTIQUE KIYA開店。
京町通
京町筋の七間町より伊勢町までの間をいう。
清須越の町で、清須当時の町名を、そのまま用いた。
清須へ多くの商人が移り住み、呉服物、細物、太物類を商っていたので、京町と名付けられた。
名古屋の京町は、清須の呉服物の商店が並ぶ町から、大坂の道修町に匹敵する薬種商の町へと変貌していった。
代表的な薬種商としては、長崎から直接唐物の薬を仕入れ、販売していた生田治郎八。
今川義元の家に代々伝わる今川赤龍丹を販売する日野屋六左衛門。価銀四匁五分の山帰来という薬を売っていた山口利兵衛がいた。
現在も京町で商売をしている中北薬品の祖、井筒屋中北伊助が、この町に店をかまえたのは寛政年間(一七八九?一八〇一)のことだ。
「好事魔多し」安政二年(一八五五)二月二十五日の夜、井筒屋の伊助方の風呂場より出火し、京町全域を燃え尽くしてしまった。
井筒屋だけでも八千両の薬が灰になった。
井筒屋は謝罪の意をこめて、毎月二十五日は風呂をたかないという。
現在に至るも中北家では、この家憲を護っている。
安政二年の大火をきっかけとして、京町は、さらに薬種商の町として発展していった。
明治二十年には、漢方薬にかわり、初めて船来薬(洋薬)が京町で販売されるようになった。
大正初期には薬祖神社をつくり、四十軒の問屋の守り神とした。
町内には薬種商の他、町医の蘇森子桂が住んでいた。
子桂は河村秀根(著名な国文学者で尾張藩士)に数十両の借財をしていた。借金を返すあてもない。
そこで子桂は秀根が幕府討伐の密談を重ね、反逆を企てていると幕府老中松平右近将監の用人に密告した。
負債を免れるとともに、賞金を得ようとして企てた事件だ。
幕府が厳しく糾問した結果、誣告の事実が露見した。
子桂は、江戸市中を引きまわしの上、獄門に処せられた。安永七年(一七七八)のことだ。
京町は明治五年、両替町に併合された。
明治十一年には再び京町の町名は復活した。
昭和四十一年、住居表示により丸の内三丁目となる。
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