2009.11.26
6日目その2:アヘル
バスはE34に乗ってオランダのアイントホーフェン方面へ向かう。
ちょうど12時頃ベルギー・オランダ国境を越えたが、その後何度も国境間を行ったりきたり。
何か不思議な感覚だ。
アヘルは、ベルギーとオランダの国境線上に位置している。
Achelse Kluisの看板が見えてきた。
12時15分、アヘルに到着。
いよいよ中へ。
正面から見たところ。
手前部分はカフェスペース。
奥に見えているのが醸造所スペース。
突き当りを右に行くとさらにカフェスペースが広がっている。
建物に囲まれたスペース。
夏になると観光客、ハイキングやサイクリングで訪れる人も多く、皆テラスでビールを楽しむ。
ここでは修道院の方は登場せず、軽い昼食をとりながら卸会社Weynants社の責任者マルク氏から説明を受けた。
1844年、ウエストマール修道院の修道院長がアヘル修道院のベルギー側の建物を買い戻し、1年後にはオランダ側にあった残りの部分も買い戻し、修復を開始した。
最初の労働は農業だった。
1850年、修道士達は既にあったパン焼き場に加えて醸造所を修道院内に造ることを決め、1852年にはフル生産を行うまでになった。
1914年、アントワープに移動しつつあったドイツ軍を迎え撃つべく、ベルギー軍の将軍とその部隊がアヘル修道院の建物に陣取った。
ドイツ軍がやって来て戦闘が始まると、修道士達は修道院の裏口からオランダ側に逃げた。
その後何年間かドイツ軍は修道院を占拠し、ビールの製造も完全に止まってしまった。
さらに1917年にドイツ軍によって醸造設備が完全にバラバラに分解され、銅や金属が弾薬として再利用されてしまった。
戦後は基金の欠乏から醸造所を再建することができず、ビールの製造を止めるほかなかったため、牛、馬、豚を飼育したり、野菜や果物などを作った。
今カフェになっている場所はかつて農業で使用した小屋だった場所。
そうした農業での労働は1990年代に入ってからも続いていたが、修道士の平均年齢が高くなり、それもできなくなりつつあった。
1990年代初め、トラピスト・ビールが既に醸造されていたオルヴァル修道院からマーク・ガラント修道院長(Marc Gallant)がアヘル修道院に着任したことがアヘルの修道士達に再び修道院の塀の内側で小さな醸造所を再興しようと考え直させた要因そのものだった。
1998年、トーマス・サス修道士(Thomas Sas)が新たに設立されたアヘル醸造所で最初の醸造に取り掛かった。
最初に生産されたアヘル・ビールは「アヘル4」、「アヘル5」及び「アヘル6」と命名され、醸造設備の隣にあったカフェテリアでのみ醸造タンクから直接注いで飲むことができた。
2001年、アヘル・ビールを初めて瓶詰めにして出そうとするならこれが一番向いているだろうと思われた新しいビール「アヘル8」、がアントワーヌ修道士(Antoine)によって開発された。
彼は、ロシュフォール・トラピスト派修道院での醸造技師として20年積み重ねてきた経験があった。
1年後の2002年5月には彼はまたアルコール度数8%のアヘル・ダークビールを紹介し、これでアヘル・ビールの商品構成が完成された。
(一部小西酒造様のHPを参考にしました)
しかし冬場はまったくビールが出ないため、2001年に瓶詰が開始された。
アヘルは樽生は5%、ボトルは8%と、アルコール度数が異なっている。
これは自転車などで立ち寄ってビールを飲んだ人が事故などを起こすといけないから、という配慮によるものだという。
写真はアヘル・ブロンドの樽生。(樽生は修道院内のカフェのみ)
写真は発酵及び熟成タンク。
こちらが仕込み及び煮沸タンク。
規模は想像以上に小さいものだった。
1回の仕込みで1.1kl、年間醸造量は約300klで、トラピスト醸造所の中ではすべてにおいて一番規模が小さい。
瓶詰もエクストラのみ修道院で行われ、他のものは別の場所で瓶詰されている。
奥にはショップがある。
といってもビールやお土産専門で無く、近隣の人たちのための生活雑貨店といった雰囲気。
別棟には宗教関連商品ばかりが売られているショップもあった。
買い物などを済ませて午後2時頃出発。