醸造所訪問記
2011.04.22
8日目:ホフ・テン・ドルマール醸造所ほか
朝8時スタート。
今日は帰国日だが、2軒のアポイントを入れてしまった。
最終日の1軒目は、ショコラトリー。
De Ryck醸造所とのコラボでチョコレートを製造している、Verhavert-Coolsへ。
チョコレートの製造工程やビールチョコレートの作り方などを教えてもらう。
その後、今回の滞在中にルーヴェン在住のお客様から教えていただいた、ホフ・テン・ドルマール醸造所へ。
急遽連絡を取って訪問できることに。
醸造所は、ルーヴェンの北西に位置するティルドンクという町にある。
牧草地が広がり、馬なども放牧されているのどかな場所。
ホフ・テン・ドルマール醸造所はもともと農家で、2009年に現在の社長であるアンドレ・ヤンセン氏が醸造を開始。
ヤンセン氏の息子が農業の大学を卒業したのをきっかけに、自分たちで作っているものだけを使ってビールを造ろうと決心し、アメリカに渡って醸造を学んだ。
醸造所のある場所には、12世紀ごろ、ヤン・ヴァン・ドルマールという人物が住んでおり、「Hof ten Dormaal(ドルマールの農家)」と呼ばれていたことから、そのまま醸造所の名前になった。
デュポン醸造所やブロウジ醸造所などのセゾン・ビールの醸造所、かつての醸造農家をとても意識しており、味わいはもとより、ボトルも375ml瓶にコルクを使って瓶詰めしている。
特にアメリカで人気があり、生産量の75%がアメリカ向けに輸出されているとのこと。
ブロンドのティスティング。
Witloofとは、オランダ語でチコリのこと。
以前は季節限定だったが、現在では通年で生産している。
ラベルの絵はアンドレさんの母親が描いている。
かつてはこのあたりではどの家でもチコリを育てていた。
煮沸の最後30分にチコリの根を投入する。
ホップと半々で。ドライな味わいになる。
仕込み釜、煮沸釜。
発酵タンク。
アンドレさんと倉庫。
現在でも本業は農家であり、65ヘクタールの畑を所有し、麦やとうもろこしを作り、牛65頭も所有している。
またビールの原料となる大麦やホップもすべて自分たちの畑で作っているという。
アンドレさんと。
とてもおもしろい醸造所だった。
おそらくこのまま輸入することになりそう。
この後、Oさんのオフィスに寄って、そのまま空港へ。
2011.04.21
7日目(2):リーフマンス醸造所
リーフマンス醸造所を訪れるのは、2001年以来10年ぶり。
当時はまだリヴァグループの一員で、デスプレンテル社長夫妻とご一緒した。
2007年からデュベル・モルトガット社の傘下にある。
現在はかつての4倍の規模、200万リットル/年を製造している。
かつてリヴァでやっていた仕込みは現在デュベルで行っている。
かつての醸造設備。
かつての煮沸釜。
麦汁がここで1泊していた。
麦芽粉砕機。
1991年当時のカスがそのまま置いてある。
以前使用していた、クールシップ。
1時間で90℃から60℃に下げるのが目標。
天井は蒸気を通すため、木で作られている。
以前使用していた、Baudelot(ボードロー)システム。冷却器。
沈殿がある部分は布でフィルターをかける。
あとで外して洗って乾かす。
発酵槽。
今でもオープンタンク。4000リットル。
窓を開けて、23℃で1週間発酵が行われる。
中に通っているパイプに水が通っており、温度管理できる。
途中、3~4回木の棒で酵母の上澄みを取る。
140リットル分とって0℃で保管、次回のバッチに使用する。
この酵母は1930年代から使用されている。
70リットルのバケツで2杯分。
熟成タンク。
常温で熟成させ、0℃に冷却後、0℃で保管。
ブレンド機。
4~6種類のブレンドは舌だけに頼って行われる。
冷却器。
85℃で殺菌後、再び0℃に冷却。
大きな貯蔵タンクへ。
貯蔵タンク。
さらに0℃で貯蔵される。
15klのトラック。
ボトルはパルム、コルクものはkonings、ケグはローデンバッハへ運ばれる。
チェリービールの貯蔵室。
貯蔵タンク。
70000リットル×18器ある。
62000リットルに8000kgのチェリーを漬け込む。
約2年間熟成させる。もっとかかることも。
ティスティング後、0℃のタンクへ、そしてブレンド。
中はこのようになっている。
チェリーをブレンドする機械。
貯蔵庫。
もともと鉄の輪(iron band)という名前だったが、コンテストで受賞し、グーデンバンドになった。
ここには11万本以上のビールが貯蔵されている。
1986年のグーデンバンドもあった。
醸造所のすぐ横を流れるスヘルデ川。
フランス北部、ベルギー西部およびオランダ南西部を流れ北海に流入する川。延長350km。
お楽しみのティスティング。
ガイドのネッツさんと。
サイト・マネージャーのクーセンスさん。
リーフマンス人気の礎を作ったといわれている、マダム・ローザの家。
会いに行ったが残念ながらお買い物に出られていてお留守。
18時過ぎにホテルに戻って、19時30分にグランプラス。
パートナーのOさん、片山さんと合流。
イロ・サクレ地区にある有名店、スケルトマ(Scheltema)で夕食。
ムール貝。
食後は水たばこ(シーシャ)の店、PALMYRAへ。
水たばこ(シーシャ)を初体験。
いろいろなフレーバーがあって楽しい。
片山さんのおかげでいろいろな体験ができる。
2011.04.21
7日目(1):ブルージュ~ドゥ・ハルヴ・マーン醸造所
8時半に出発して、10時過ぎにブルージュ。
約束の時間まで時間があったので、少し町の中を散歩。
ベギン会修道院。
1245年にフランドル伯夫人によって建てられた、世界遺産にもなっているベギン会修道院。
ここは未亡人となった人や政略結婚から逃れる人が逃げ込む女性だけのコミュニティ。
かつては各地にあったが現在でも続いているのは(実際に女性たちが生活している)ここブルージュくらいだという。
愛の湖公園。
すぐ近くにあるのがドゥ・ハルヴ・マーン醸造所。
11時前に社長のザヴィエル氏と会ってそのまま醸造所内のレストランでミーティング。
日本のベルギービールウィークエンドや、ワンウェイケグについてなど。
ミーティングは1時間ほどで終了。
醸造所内の中庭。
ビールを楽しむ人たちで賑わっている。
ちょうどお昼時なので、サンドウイッチを買いましょう。
その場で手際よく作ってくれる。
馬車。
聖母教会。
ここには、ドゥシェス・デ・ブルゴーニュにラベルで知られる、マリー・ド・ブルゴーニュ(Marie de Bourgougne, 1457年2月13日 – 1482年3月27日)が、父親のシャルル突進公の棺と並んで埋葬されている。
後に夫のマクシミリアンが死去した折、その心臓もマリーの墓に共に埋葬された。
聖母教会横の広場でサンドウィッチを食べる。
お天気もよくぽかぽか陽気。
13時過ぎにブルージュを出発。
醸造所訪問記2011.04.20
6日目:ヴァン・デン・ボッシュなど取引先4醸造所へ
今日はヴァンデンボッシュ醸造所など4軒の醸造所を訪問。
朝8時にホテルを出発。
ヴァン・デン・ボッシュ醸造所。
1907年から作られている同社の銘柄「ブファロ(バッファロー)」の名前の由来となった、ヴァン・デン・ボッシュ醸造所前の広場。
かつてビールの仕込には石炭が使われていた。
ちょうど醸造所のある町にバッファロー・ビルのサーカス団が来ていたため、若いスタッフはそれを観にいきたくて仕方がなかった。
彼はとうとう我慢できなくなり、たくさんの石炭を釜に放り込んでサーカスを見に行ってしまった。
サーカスに夢中になっていたので醸造所に戻ることをすっかり忘れていたが、思い出して慌てて戻ってみると釜の底は焦げてしまいカラメル状になっていた。
しかしそのビールを皆で試飲してみたところとても美味しかったので、そのときのサーカス団にちなんで”Buffalo”と名づけられ、醸造所の主力の銘柄になった。
瓶詰めラインに行くと、欧和の今井さんが作業中。
欧和はこの醸造所の設備を借りて造られている。
社長のブルーノ氏とミーティング。
KeyKegやバレルエイジの製品についてなど。
2軒目はデ・ライク醸造所にてミーテイング。
社長のアンさんと娘のミークさんと。
ティスティングしているのは、新製品のスティーンウルク。
ふくろうに因んだビールで、とてもスパイシー。
3軒目はコントレラス醸造所にてミーテイング。
社長のフレデリック氏、そして奥さんとは初対面。
少し前まで使っていたボードロー・システム(冷却機)はもう使わなくなったとのこと。
そして最後に訪問したのは、ボーレンス醸造所。
最近、醸造設備が新しくなったので見学させてもらった。
写真に写っていいるのは社長のクリス氏。
夜はパートナーのOさんのお宅で夕食をごちそうになった。
醸造所訪問記2011.04.19
5日目(2):ローデンバッハ醸造所
12時過ぎにパルム醸造所を出発。
時間が無いのでサンドウィッチを買って車の中で食べる。
14時頃、ローデンバッハ醸造所。
ここを訪問するのは10年ぶり2回目。
門をくぐってすぐ右側には、創業者アレキサンダー・ローデンバッハ(1786-1869)の像。
正門を入ると正面に見えるのが旧製麦所。
1830年代末に建てられた円錐形のタワーを持つ製麦所は、現在博物館となっており、醸造所の中心的存在。
ヴィジターホール。
事前に予約しておけば食事をすることもできる。
ローデンバッハ一族の系譜。
2002年に新設された新しい仕込室。
奥に見えるのは発酵タンク。
かつて使用していた発酵槽。
もっとも印象的で特徴的な熟成庫。
最大で60kl入、最小のものでも12kl入というとてつもなく大きなオーク製の木樽が備え付けられている。
一番広い熟成庫には5列に並んだ木樽が合計100個置かれ、列と列との間は狭い通路になっている。
これより小さな熟成庫も10室ある。
最も古いものは1836年から使用されており、全部で294の樽が設置されている。
樽職人の部屋。
たくさんの木樽を維持するには、大量の板、金輪、リードなどを扱う職人が必要で、彼らの多くは1900年代の初めから代々ローデンバッハで働いてきた人たち。
現在はベルギー中でこの2名のみ。
樽を転がせるようにレールのようなものが付いている。
サイト・マネージャーのRudi Ghequireさん。
この醸造所で29年間働いてる。
『ベルギービール大全』のローデンバッハのページを開いて記念撮影。
この日は2軒の醸造所訪問を終えて、19時頃ホテル帰着。
醸造所訪問記2011.04.19
5日目(1):パルム醸造所
今日は8時過ぎにホテルを出発して、2軒の醸造所訪問。
まず1軒目はパルム醸造所。
門に掲げられた看板には、「KIYA-Japan」の文字が。
こういう気遣いが嬉しい。
醸造所の歴史など聞きながら醸造所見学。
パルム(Palm)醸造所はフラームス・ブラバンド州(Flemish Brabant)の北西にあるステーンフッフェル村(Steenhuffel)の中心地(デュベル醸造所から車で10分)に位置し、この場所で255年以上にわたって上面発酵ビールである「パルム」(Palm)を醸造している。
この村でのビール造りの最も古い記録は1597年に遡る。
1747年、当時「ドゥ・ホールン」(De Hoorn)と呼ばれていた、パルム醸造所が役所から正式に醸造所として認められた。
1975年になって醸造所の名前は、自社ビールで一番人気のあるパルムの醸造元であることをよりよく認識してもらうため、パルム醸造所と改名された。
1980年にブラバント馬のイメージが会社のロゴとして加えられた。
ハーブの部屋。さまざまなハーブが展示してある。
倉庫、瓶詰めライン。
パルム・エクスプレスに乗って別の場所へ。
パルム所有の中世のお城へ。
1970年代には使われなくなり、城主のヴァン・マルデイゲン氏が農家に貸していたものを1980年頃パルムが購入。
たくさんの馬具。
厩舎。
ブラバント馬は18世紀に開発された農耕馬。
力強いが、性格は優しく、よく言うことを聞く。
1800年、パリのコンテストで優勝してから人気が出て、アメリカにも20万頭の輸出実績がある。
車の時代になって衰退した。
プレートには、「ローデンバッハ」。
本当はパルムの泡の色と同じ、VOS(色の種類)という色にしたかったが、ベルギーにはもういなかったので、アメリカから輸入して掛け合わせた、とのこと。
見学終了後はお楽しみのティスティング。
前社長アルフレッド・ヴァン・ロイ氏と現社長ヤン・トイ氏。
アルフレッド氏は96歳で死去、甥のヤン氏に引き継いだ。
2010.07.27
De Cam(デ カム) 2010.7.27.
2010.07.27
4日目:ボーレンスなど4醸造所へ
結構タイトな一日。
6時半頃起きて、7時半にホテルを出発。
8時半前にボーレンス醸造所到着。
ボーレンス家の自宅でミーティング。
少し問題のあったKeyKegについてなど。
ちょうど醸造所も新しい設備を追加している最中で、半年ほどで稼働予定とのこと。
ボーレンス醸造所の銘柄 ”トリプル・クロック”物語の舞台となった町の教会。
住所でもある、Kerkstraat(教会通り)の名前の通り、醸造所からすぐの場所にある。
次に向かったのは、ドゥ・ハルヴ・マーン醸造所。
醸造所の近くに新しくできた瓶詰め工場へ。
以前、瓶詰めは外注していたが、これで自前でできるようになる、とのこと。
醸造所レストランに移動してミーティング。
デ・ライク醸造所に向かう途中に出会った跳ね橋。
ベルギーやオランダではたまに見る光景。
デ・ライク醸造所でミーティングの後、4軒目のデ・カムへ。
デ・カムのカレルさんは、当時弊社が取引していたWitkapで知られるSlaghmuylder(スラッグムルダー)醸造所の醸造責任者だった。
実は最初はそんな縁から、デ カムの日本への輸入がスタートした。
工房内を見学したり、ティスティングさせてもらう。
詳しくは、Geuzestekerij De Cam(デ カム)まとめ。
ワーテルロー「ライオンの丘」(Butte du Lion)。
知り合いのKさん宅に集まった子どもたちと。
それぞれの母語がオランダ語と日本語ながら楽しく遊んでいて素敵。
2009.11.28
8日目:デライク醸造所~帰国
ベルギー最終日。
朝一番にデ・ライク醸造所へ。
ここは土曜日でも営業しているのでとてもありがたい。
2時間ほどミーティングをした後、そのままブリュッセル空港へ。
今回は少し時間があったので、乗るのはルフトハンザだが、同じスターアライアンスのSASラウンジへ
ブリュッセル空港では初めてラウンジに寄った。
人も少なく、ものすごく静かで快適なラウンジだった。
最後のベルギービール。
ここではヒューガルデン、ステラ・アルワ、レフ2種類が提供されていた。
今夜はフランクフルト。
明日はついに帰国の途につく。
醸造所訪問記
2009.11.26
6日目その2:アヘル
バスはE34に乗ってオランダのアイントホーフェン方面へ向かう。
ちょうど12時頃ベルギー・オランダ国境を越えたが、その後何度も国境間を行ったりきたり。
何か不思議な感覚だ。
アヘルは、ベルギーとオランダの国境線上に位置している。
Achelse Kluisの看板が見えてきた。
12時15分、アヘルに到着。
いよいよ中へ。
正面から見たところ。
手前部分はカフェスペース。
奥に見えているのが醸造所スペース。
突き当りを右に行くとさらにカフェスペースが広がっている。
建物に囲まれたスペース。
夏になると観光客、ハイキングやサイクリングで訪れる人も多く、皆テラスでビールを楽しむ。
ここでは修道院の方は登場せず、軽い昼食をとりながら卸会社Weynants社の責任者マルク氏から説明を受けた。
1844年、ウエストマール修道院の修道院長がアヘル修道院のベルギー側の建物を買い戻し、1年後にはオランダ側にあった残りの部分も買い戻し、修復を開始した。
最初の労働は農業だった。
1850年、修道士達は既にあったパン焼き場に加えて醸造所を修道院内に造ることを決め、1852年にはフル生産を行うまでになった。
1914年、アントワープに移動しつつあったドイツ軍を迎え撃つべく、ベルギー軍の将軍とその部隊がアヘル修道院の建物に陣取った。
ドイツ軍がやって来て戦闘が始まると、修道士達は修道院の裏口からオランダ側に逃げた。
その後何年間かドイツ軍は修道院を占拠し、ビールの製造も完全に止まってしまった。
さらに1917年にドイツ軍によって醸造設備が完全にバラバラに分解され、銅や金属が弾薬として再利用されてしまった。
戦後は基金の欠乏から醸造所を再建することができず、ビールの製造を止めるほかなかったため、牛、馬、豚を飼育したり、野菜や果物などを作った。
今カフェになっている場所はかつて農業で使用した小屋だった場所。
そうした農業での労働は1990年代に入ってからも続いていたが、修道士の平均年齢が高くなり、それもできなくなりつつあった。
1990年代初め、トラピスト・ビールが既に醸造されていたオルヴァル修道院からマーク・ガラント修道院長(Marc Gallant)がアヘル修道院に着任したことがアヘルの修道士達に再び修道院の塀の内側で小さな醸造所を再興しようと考え直させた要因そのものだった。
1998年、トーマス・サス修道士(Thomas Sas)が新たに設立されたアヘル醸造所で最初の醸造に取り掛かった。
最初に生産されたアヘル・ビールは「アヘル4」、「アヘル5」及び「アヘル6」と命名され、醸造設備の隣にあったカフェテリアでのみ醸造タンクから直接注いで飲むことができた。
2001年、アヘル・ビールを初めて瓶詰めにして出そうとするならこれが一番向いているだろうと思われた新しいビール「アヘル8」、がアントワーヌ修道士(Antoine)によって開発された。
彼は、ロシュフォール・トラピスト派修道院での醸造技師として20年積み重ねてきた経験があった。
1年後の2002年5月には彼はまたアルコール度数8%のアヘル・ダークビールを紹介し、これでアヘル・ビールの商品構成が完成された。
(一部小西酒造様のHPを参考にしました)
しかし冬場はまったくビールが出ないため、2001年に瓶詰が開始された。
アヘルは樽生は5%、ボトルは8%と、アルコール度数が異なっている。
これは自転車などで立ち寄ってビールを飲んだ人が事故などを起こすといけないから、という配慮によるものだという。
写真はアヘル・ブロンドの樽生。(樽生は修道院内のカフェのみ)
写真は発酵及び熟成タンク。
こちらが仕込み及び煮沸タンク。
規模は想像以上に小さいものだった。
1回の仕込みで1.1kl、年間醸造量は約300klで、トラピスト醸造所の中ではすべてにおいて一番規模が小さい。
瓶詰もエクストラのみ修道院で行われ、他のものは別の場所で瓶詰されている。
奥にはショップがある。
といってもビールやお土産専門で無く、近隣の人たちのための生活雑貨店といった雰囲気。
別棟には宗教関連商品ばかりが売られているショップもあった。
買い物などを済ませて午後2時頃出発。
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